平重衡が梶原景時に護送されて、三月十日都を発ち三月二十七日鎌倉に着くまでの道行文はきれいな美文である。その大津に出るまでのところ、
「 生け捕りにせられて都へかへるだに口惜しきに、いつしか関の東におもむかれけむ心のうち、おしはかられてあはれなり。
四宮河原になりぬれば、ここは昔・・・・・蝉丸の関の嵐に心を澄まし、琵琶を弾き給ひしに、博雅の三位といっし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜もみとせが間歩みをはこび、立ち聞きてかの三曲を伝えけむ、わらやの床のいにしへも思いやられて哀れなり。
逢坂山を打ち越えて・・・・・」
ここはなんとしても一度歩まねばならないところである。京津線の追分駅で下車して大津へ向かって歩き始めた。左右は高くは無いが、山の間を進む道である。左には国道と名神が並行して走っている。京津線はいつのまにかトンネルに入って見えない。名神も左にぐっと逸れて見えなくなり、全く狭い山間の道となり大谷駅に着く。
駅のすぐ左に蝉丸神社がある。神主らしい人は誰もいないが訪れる人は三々五々あるようである。近くに逢坂の関跡の碑があるが、関はもう少し先にあったようだ。道は下りになり京津線もトンネルから姿を見せる。
関蝉丸神社下社が線路横にある、有名な(関の清水)もここにあり、逢坂の関もこの近くにあったらしい。
写真は蝉丸神社と逢坂の関跡の石碑
テーマ : 京の歴史散策 - ジャンル : 日記
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