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木曾殿最後 その1

 寿永二年七月二十五日平家が都落ちした後、比叡山に逃れていた後白河法皇を迎え、守りつつ木曾義仲が五万の兵をひきいて京都に入ってくるのが七月二十八日である。この時が義仲の得意の絶頂期で、後は翌年一月二十一日大津の粟津の松原で討ち死にするまでのわずか七ヶ月の波乱の最後が始まる。
 西で平家と水島の戦い、室山の戦いをしつつ、都では一ヵ月もしないうちに義仲の人気は落ちてしまう。平家物語は義仲の田舎育ちの無骨さ、言葉使いの田舎臭さを笑うが、それを全く意に介していない義仲にはむしろ好感が持てる。
 都の人に不人気になった一番の原因は、二年続いた全国飢饉の折、五万の軍勢をひきいながら、食料、その他の資材の用意ができてなくて、兵士が掠奪を始めたことだ。義仲は制止するより庇わねばならなかった。法皇はひそかに頼朝と連絡を取る。
 ついに義仲は後白河法皇の御所、法住寺へ攻めかかる。この時義仲勢六、七千騎。ずいぶん減っている。一方法皇方は二万余騎であった。
 今、三十三間堂の東に法住寺があり、後白河法皇の御陵もある。樋口兼光が今熊野の方面から攻めかかっているから、当時の法住寺の広さが想像できる。三倍の敵に対して義仲の完勝であtった。
 この法住寺合戦が十一月十九日で、翌二十日六条河原にかけられた首は六百三十余であった。
今の五条通りは昔の六条坊門通りらしいから、今の五条橋から上流の方が六条河原であろう。京阪電車東福寺駅から今熊野を通り法住寺、国立京都博物館の西を五条橋まであるいてみる。


     写真は法住寺と鴨川(五条橋から)

法住寺 鴨川(五条橋から)



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